2020.12.06
余裕の美学
ある朝の出勤途中、車のラジオから聞こえてくる名も知らぬミュージシャンの音楽に耳が止まりました。細かい歌詞の内容は覚えていませんし、歌詞もありふれた内容だった様な気がします。
何故、そんな普通の曲に耳がとまったのか。
私たちは、多感な思春期を過ぎて、大人になっていくにつれて、‟日常”に対して感動が少なくなっている様な気がします。
学生時代であれば、日曜日の朝、晴天の空を見ただけでウキウキしていたのに、今は、その日のスケジュールを考え身支度をし、業務をこなし、気が付くと終業時刻がきている。
別に意としてやっている訳でもなく、それが苦痛な訳でもありません。
もちろん、新しい仕事に挑戦する時や、子どもの行事、趣味の時間等で楽しい時間を過ごすこともありますが、明らかに学生時代とは違います。
そんな時、車のラジオから流れてきた、名も知らぬミュージシャンの曲に耳が止まりました。
”誰かが好き”だの、”雲間から漏れている光がキレイ”だの、本当にありふれた曲でしたが、私にはなにか心につきささるものがありました。
思った事は、「心の余裕」です。
当たり前ですが、「大人」と「子供」の本質的な意味合いの違いは「責任」です。
ただこの「間違った責任感」が私たちの思考を縮小させてしまう大きな原因となります。
一般的に、自分の好き勝手に生きている人を「無責任」的な目で見る人が多いですが、社会全体を見た時に、実はそうではない事に気が付きます。
例えば、「お酒」「エンターテインメント」「スポーツ観戦」などなど、
真面目にビジネスで考えても、一般的に「無責任」っぽいビジネスだって十分に「社会的責任」を果たしています。
いやもしかすると、そっちの方が大きなビジネスをしている様な気もします。
食事をして美味しいと感じる事、奇麗な景色をみて感動する事、誰かを愛する事、などこれらは頑張ってする事ではなく、本当の自分の心の声を閉じ込めなければ自然出てくる感情なのではないでしょうか。
大人になったから、感情が鈍くなる訳ではありません。感情は子供の頃と同じく自分の心の中にきちんとあって、自分自身で閉じ込めてしまっているだけなんです。
そう思うと、急に視界が広くなり、雲の切れ間から漏れてくる太陽の光がとてもきれいに見えました。
体で感じる全てのものに、正直に反応出来る自分でいたいなと思いました。
あみだ堂 能呂慎太郎
何故、そんな普通の曲に耳がとまったのか。
私たちは、多感な思春期を過ぎて、大人になっていくにつれて、‟日常”に対して感動が少なくなっている様な気がします。
学生時代であれば、日曜日の朝、晴天の空を見ただけでウキウキしていたのに、今は、その日のスケジュールを考え身支度をし、業務をこなし、気が付くと終業時刻がきている。
別に意としてやっている訳でもなく、それが苦痛な訳でもありません。
もちろん、新しい仕事に挑戦する時や、子どもの行事、趣味の時間等で楽しい時間を過ごすこともありますが、明らかに学生時代とは違います。
そんな時、車のラジオから流れてきた、名も知らぬミュージシャンの曲に耳が止まりました。
”誰かが好き”だの、”雲間から漏れている光がキレイ”だの、本当にありふれた曲でしたが、私にはなにか心につきささるものがありました。
思った事は、「心の余裕」です。
当たり前ですが、「大人」と「子供」の本質的な意味合いの違いは「責任」です。
ただこの「間違った責任感」が私たちの思考を縮小させてしまう大きな原因となります。
一般的に、自分の好き勝手に生きている人を「無責任」的な目で見る人が多いですが、社会全体を見た時に、実はそうではない事に気が付きます。
例えば、「お酒」「エンターテインメント」「スポーツ観戦」などなど、
真面目にビジネスで考えても、一般的に「無責任」っぽいビジネスだって十分に「社会的責任」を果たしています。
いやもしかすると、そっちの方が大きなビジネスをしている様な気もします。
食事をして美味しいと感じる事、奇麗な景色をみて感動する事、誰かを愛する事、などこれらは頑張ってする事ではなく、本当の自分の心の声を閉じ込めなければ自然出てくる感情なのではないでしょうか。
大人になったから、感情が鈍くなる訳ではありません。感情は子供の頃と同じく自分の心の中にきちんとあって、自分自身で閉じ込めてしまっているだけなんです。
そう思うと、急に視界が広くなり、雲の切れ間から漏れてくる太陽の光がとてもきれいに見えました。
体で感じる全てのものに、正直に反応出来る自分でいたいなと思いました。
あみだ堂 能呂慎太郎